十四世紀の論争 と 聖グレゴリオス·パラマスの神学 by エヴァンゲロス·マギラス司祭 - HTML preview

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359.

▪11 Βέλικο Ραντούνοβιτς, Τα έργα του Αγίου Γρηγορίου Παλαμά στη σερβική

γραμματεία του 14ου αιώνα, διδακτορική διατριβή, Θεσσαλονίκη 1998, Εθνικό

Κέντρο Τεκμηρίωσης 14/4/1999, p. 35.

5

序説

当研学では、十四世紀の論争を取り扱っていく。ヘシュカスムと神学

的な伝統の引用、東部と西部の神学的思考の多様化へ導かれた理由の分析、

そしてヘシュカスト(静寂主義者)とヘシュカスト反対派の教えの表示を

通し、この争いには文化的、神学的背景があったことの証明を試みる。論

争の主導者と衝突したのは合理主義を主な要素とした西方の精神、それか

ら聖書と教父に対し忠実でいることに励んでいた伝統的な正教(オーソド

ックス)であった。

オスマン帝国のキリスト教徒の道徳心の発達、そして論争に続き、困

難に満ちた年月の間、正教的素性の維持にとって、ヘシュカスト(つまり、

正教の伝統)の勝利は極めて有意義であった。

6

聖グレゴリオス·パラマスの

略伝

聖グレゴリオス·パラマス(1296-1359)は、小アジアの貴族

出身であり、1296年にコンスタンティノポリスで生まれた。七歳の時

に父親を亡くしたが、王室の支援の元、勉学を続けた。コンスタンティノ

ポリスの大学校で学修し、アリストテレス哲学の知者として評価された。

それでも尚、早期にコンスタンティノポリスを退去したため、基礎教育を

超えた確率は低い。それは、教養のある社会への加入、又は神学、そして

哲学の勉強の継続を目的としたビザンティン人の誰もが習得せざるを得な

かった教育だった。

二十歳の時、修道生活を選択し、パピキオ山(マケドニアとトラキア

の間にあった)、アギオン·オロス、そしてベリアで修業した。1326年

に聖職に就けられ、1347年にテッサロニキ司教に選出された。

1354年初期、コンスタンティノポリスへ向かっていた聖グレゴリ

オス·パラマスは、トルコ人の捕慮になり、小アジアへ誘導された。結局、

1355年の春、高額の身代金が(恐らくはセルビア人により)支払われ、

釈放された。

重病により、1359年11月14日に亡くなった。神聖性が正式に

1368年の議会で宣言される前に、すぐ人民はパラマスを聖人として敬

意を表した 12。

▪12 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 213-217. Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι

ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ. Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p.

35, 106-110.

7

聖グレゴリオス·パラマスは、当時西方の神学的観点に影響を受けてい

た正教の神学者と激突した。

教父の教えを、攻撃から守る努力の中、正教会の神学を発展させ、体

系化させた。神の本質{「ウーシア (οὐσία)」}の絶対化を敵対しつつ、

神を知る上で必要な哲学を同入した。「与りえぬ (ἀμέθεκτος)」神の本質

と ( 神の 本 質を源 と して い る) 「 与 りう る (μεθεκτή)」エネルゲイア

{「神の働き (θεία ἐνέργεια)」}の区別を土台とし、「神を知る」という

のは、知性作用ではなく、三位一体の神そのものと接触することから得ら

れる「もの」だと示した(神の働き、「造られざる」エネルゲイアを通じ

て神と人間は交われる。何故ならば神は人格を有しない本質ではなく、多

位格の交わりであるから)。

8

ヘシュカスムの

歴史的経過

ヘシュカスム運動は十四世紀に突然現れたわけではない。その根元は、

四世紀、つまり修道院制度の始まりにある 13。

四世紀にはすでに、世捨て生活を聖大アントニオス(251-356)

が借用しており、その伝記作者、聖大アタナシオスによると、修道院運動

の設立者であり、以後、世捨て人全員の手本となった 14。聖大パコミオス

(292-348)による、集団生活を行う修道院の出現は、隠遁生活の

更なる進化、又修道者と世捨て人の共存の妨げにはならなかった 15。

四世紀末、エジプトの聖大マカリオスの偽名を使った未知の著者によ

る作品が、ヘシュカスム的敬神に差し響いた。その文章の中で、人間の持

っている意識と神の現れの中心は、人間の理性「ヌース (νοῦς)」ではなく、

心にあるということに重点が置かれている。「偽マカリオス」にとって、

祈りの目的は、理性の滅亡ではなく、人間全体の変成である 16。

▪13 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 13.

▪14 帝国の保護により、幸福に満ちた教会を前に、世捨て人は教会社会のために、教会

が維持すべき理想のものの保護を決定した。新しくなったのは、高位聖職者と同調した

新キリスト教徒の教会意識と生活であり、修道院制度ではなかった{Ιω. Μάγιεντορφ, Ο Άγιος Γρηγόριος ο Παλαμάς και η Ορθόδοξη Μυστική παράδοση («Ορθόδοξη

Μαρτυρία» 12), μτφρ. Ελ. Μαϊνάς, εκδ. Ακρίτας, Αθήνα 19892, p. 19}。

▪15 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 208.

▪16 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 210.

9

シナイ半島では、皇帝ユスティ二アヌス1世(527)が聖エカテリ

ニ修道院を建設した後、汎正教の光に満ちた敬神が発達した。イイスス·ハ

リストス α の御名を讃えることが、その敬神の中心となった 17。

その頃、尽きない「理性の祈り」がエヴァグリス(六世紀)により、

ヘシュカスム的隠遁生活の中心とされた 18。

イイススの祈りは、最終的に、「主イイスス·ハリストス、神の子よ、

我、罪人を憐れみ給え。」といった、短い祈願文を繰り返し唱える形とな

った 19。

その一方で、時と共に、イイスス·ハリストスの御名の唱えを呼吸法と

繋げる、特別な心身技法が構成された 20。聖エカテリニ修道院で、修道院

長を務めたヨアンネス·クリマコス(525-606)は、次のように述べ

ている。「イイススの想起を、あなたの呼吸と一つにしなさい。そうすれ

ばあなたは、静寂の本当の意義を味わうことができるだろう。」21, β。

▪17 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 14.

▪18 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 209.

▪19 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 212-213.この祈りの初期の形は、すでに四世紀

から使われていた、「主憐れめよ{キリエ·エレイソン (Κύριε ἐλέησον)}」だと言え

るであろう(Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 14)。

▪20 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 14.

▪21 «Ἡ Ἰησοῦ μνήμη ἑνωθήτω τῇ πνοῇ σου καὶ τότε γνώσῃ ἡσυχίας ὠφέλειαν»

{Ιωάννης Σιναΐτης (ヨアンネス·シナイテス), Κλίμαξ (『楽園の梯子』 ) 27, PG 88, 1112C}.

▪α イエス·キリストの現代ギリシャ語·教会スラヴ語読み(翻訳者の注釈)。

▪β 参考資料:www.geocities.jp/studia_patristica/jesus6.htm(翻訳者の注釈)。

10

もう一人、イイススの祈りの偉大な教師、北ギリシャ·フォティケの司

教、聖ディアドコス(五世紀)は、ヨアンネス·クリマコスと同様に、聖書、

そして教父の思考と直接関連するヘシュカスムの伝統を維持した 22。

ヘシュカスムの祈りの技法が記述されている、最古の著作は神学者シ

メオン(949-1022)のものとされている『聖なる祈りと注意の方

法 - 祈 り の 三 つ の 方 法 に つ い て (Μέθοδος τῆς ἱερᾶς προσοχῆς καὶ

προσευχῆς ἢ Περὶ τῶν τριῶν τρόπων τῆς προσευχῆς)』と題した論考であ

るが、実際、それはもっと新しく、十二世紀のものと検討されている 23。

ビザンティン時代末期、知性の祈りの偉大な教師は、シナイのグレゴ

リオス(1255-1347)だった。シナイのグレゴリオスによる精神

生活の目的は、聖霊の栄誉を教示することであった。その目標達成への最

短の近道は、イイスス·ハリストスの御名の規則正しい呼びかけであった 24。

彼の教えはビザンティン地方、そして特にアトス山で反響を呼んだ 25。

十三世紀末、幾つかの書かれたイイススの祈りの「方法」では、一種

の呼吸法が勧められており、後に修道士の間で幅広く使用された 26。

▪22 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 212.

▪23 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 16.

▪24 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 17-18.

▪25 Βέλικο Ραντούνοβιτς, Τα έργα του Αγίου Γρηγορίου Παλαμά στη σερβική

γραμματεία του 14ου αιώνα, διδακτορική διατριβή, Θεσσαλονίκη 1998, Εθνικό

Κέντρο Τεκμηρίωσης 14/4/1999, p. 64.

▪26 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 213.

11

この短い回想を通し、ヘシュカスムは最初の修道生活の続きでしかな

く、ただ時が経つに連れ、修道伝統に、初めの目的を達成させる、つまり

聖霊と神成化の交わりの助けとなる仕法が導入されたことが、一つの違い

であると察知できる 27。修道士の集団生活と平行して、世捨て人には内な

る暗黙が常にあった。その二種の修道は異議なく互いを補い合っていた 28。

いずれにしても、聖グレゴリオス·パラマスは知性の祈りの技法に固執

せず、その記述さえ取り上げていない。第一に、その技法が聖なる栄誉を

得るための機械的な方法だと認められないのである。バルラアムと対立す

る上で強調していたのは、ヨハネス·クリマコスとエジプトのマカリオスの

年代に至るその技法の古さ、それからその神学的、精神的制定であった 29。

▪27 Βέλικο Ραντούνοβιτς, Τα έργα του Αγίου Γρηγορίου Παλαμά στη σερβική

γραμματεία του 14ου αιώνα, διδακτορική διατριβή, Θεσσαλονίκη 1998, Εθνικό

Κέντρο Τεκμηρίωσης 14/4/1999, p. 65.

▪28 Π. Ευδοκίμοφ, Η Ορθοδοξία («Βιβλιοθήκη Ορθοδόξου Μαρτυρίας» 1), μτφρ.

Αγαμ. Τ. Μουρτζόπουλος, εκδ. Β. Ρηγόπουλος, χ.τ. 1972, p. 35.

▪29 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 21.

12

ヘシュカスム論争の

歴史的事象

第一段階(1336-1341)

バルラアム 30 と聖グレゴリオス·パラマスの初めの対立は、明らかに神学上

のものだった 31。西方教会の観念との接触、そして「人本主義的」環境へ

の加入が、バルラアムをアリストテレスだけでなく、神を全くもって知る

ことを条件にキリスト教の概念の主たる基準に節略されたネオプラトニズ

ムの熱心な支持者とさせた 32。

▪30 バルラアム(1290-1348)は、1290年頃、カラブリアのセミナーラで

生まれた。イタリア·ルネサンスの精神に影響された、ギリシャ出身で、ギリシャ教育を

受けた修道士、そして哲学者であった。アリストテレス、又プラトンの哲学を修得した

く、アルタへ行き(1326)、テッサロニキへ移り、コンスタンティノポリスに行き

着いた(1330)。そこで古典教育の後援者ヨハネス·カンタクジノスより、大学で哲

学教授の職が与えられたが、彼の傲慢な態度が原因で、早くも他のビザンティンの哲学

者との間にひびが入った。ギリシャ人学識者の周囲には、論理学とスコラ哲学を基にし

ていたバルラアムの立論は熟知されていなかったため、哲学者ニキフォロス·グリゴラス

との公共の対談で、バルラアムは安易に負けてしまった。辱めを受け、コンスタンティ

ノポリスを去り、テッサロニキに定住し、自ら学部を設立した。1341年6月10日

の聖職会議において、神学的姿勢が非難された後、イタリアへ発った。ローマカトリッ

ク教会の教条を受け入れ、最終的にはローマ教皇クレメンス6世によりジェラーチェの

主教に任命された (Βέλικο Ραντούνοβιτς, Τα έργα του Αγίου Γρηγορίου Παλαμά στη

σερβική γραμματεία του 14ου αιώνα, διδακτορική διατριβή, Θεσσαλονίκη 1998, Εθνικό Κέντρο Τεκμηρίωσης 14/4/1999, p. 36. Π. Κ. Χρήστου, Εκκλησιαστική

Γραμματολογία. Πατέρες και Θεολόγοι του Χριστιανισμού τ. Β΄, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 20032, p. 58-59)。

▪31 Βλ. Ιω. Φειδάς, Εκκλησιαστική Ιστορία Β΄. Από της εικονομαχίας μέχρι της

αλώσεως (726-1453), Αθήναι 1983, p. 204.

▪32 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 219, 223.

13

反 対 に 聖 グ レ ゴ リ オ ス ·パ ラ マ スは 、 弁 証 法 は 「被 造 物 { ク テ ィシ ス

(κτίσις)}」以外の「造られざるもの」は調査できないと見なしていた 33。

古代ギリシャ哲学の伝統について、教会の伝統に併合するには、基盤から

再建し、更新された「復活した」ものとならなければならなかった 34。

忽ちバルラアムは、ヘシュカストを異端者として非難した。肉体も観

想的な祈り 35 に関与できる上、そうするべきだというヘシュカストとは反

対の意見を表した。「タボルの光」が「造られざるもの」なら、それは神

の本質であるはずだと主張し、その光を必滅で限りある神性の象徴と考え

ていた 36。更に、神の本質とエネルゲイアを区別することで、「二つ」の

神を告示していると、聖グレゴリオス·パラマスを責めた 37。

皇帝アンドロニコス3世 38 は、争いの膨張を目にし、両側の関係者か

ら教会会議の希望を受け(バルラアムはグレゴリオス·パラマスに異端者の

判決を下すため。そして、パラマスはその告発を架空のものだと証明する

ため。)開会の認可を余儀なくされた 39。

▪33 Ν. Α. Ματσούκας, Δογματική και συμβολική θεολογία Α. Εισαγωγή στη

θεολογική γνωσιολογία, εκδ. Π. Πουρναράς, Θεσσαλονίκη 2009, p. 161-162.

▪34 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 223-224.

▪35 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 231.

▪36 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 44.

▪37 Β. Τατάκης, Η ελληνική και πατερική βυζαντινή φιλοσοφία, εκδόσεις Αρμός, Αθήνα 2000, p. 123.

▪38 アンドロニコス3世パレオロゴス(1297-1341)。

▪39 Ioannis Cantacuzeni Eximperatoris, historiarum libri IV, L. Schopeni 編 , Ιmpensis Ed. Weberi 出版, Bonnae 1831. Βόννης 再版, Επικαιρότητα 出版, τ. Β΄, Αθήνα 2008, p. 550(以降).

14

教会会議は1341年6月10日に開かれ、バルラアムが非難された上、

神との連合、そして人間の存在論的な神成の土台として、神の本質とエネ

ルゲイアの区別が承認された 40。

成功を期待できないと見て取ったバルラアムはイタリアへ発った。ロ

ーマカトリック教会の教条を受け入れ、最終的には、ローマ教皇クレメン

ス6世によりジェラーチェの主教に任命された 41。

ビザンティン滞在期間中、多数の友人と生徒を得たことにより、バル

ラアムがイタリアへ去ったことで論争が終わったわけではなかった。その

団体の中で、今度は、グレゴリオス·アキンディノス 42 がバルラアムの座を

引き受けた。

▪40 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 52-53.

▪41 Π. Κ. Χρήστου, Εκκλησιαστική Γραμματολογία. Πατέρες και Θεολόγοι του

Χριστιανισμού τ. Β΄, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 20032, p. 59.

▪42 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 56. グレゴリオス·アキンディノス(1300-

1348)は、ギリシャ領マケドニア北部のプリラポス出身で、ブルガリア生まれであ

った。母国で学び始め、それからテッサロニキで勉学を続けた。そこでバルラアムの講

義を受けたが、同時にグレゴリオス·パラマスに対し深い尊敬の気持ちを抱き、1341

年、6月の教会会議でパラマスの弁護を編制した。ヘシュカスムの修道者の慣行につい

ては、衝突しなかった。それは、受け入れたからではなく、人は誰でも、望む教会経験

の 道 を 歩 め ば い い と 信 じ て い た か ら で あ る (Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι

ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ. Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p.

37. Π. Κ. Χρήστου, Εκκλησιαστική Γραμματολογία. Πατέρες και Θεολόγοι του

Χριστιανισμού τ. Β΄, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 20032, p. 61-62)。

15

教会会議の前、神の本質とエネルゲイアの区別といった神学的問題に

触れないよう、応諾していたため、謙虚な人だったグレゴリオス·アキンデ

ィノスは、グレゴリオス·パラマスに裏切られた気持ちになった。論議を呼

びそうな神学的問題に対する会議の判定を疑いつつ、望んでもいなかった

争いをもたらしてしまった 43。

疑惑を晴らすため、新たな会議が必要となり、1341年8月、バル

ラアムとその支持者に審判がくだされた 44。

論争は、1341年8月の会議の判定、そしてバルラアムに対する最

終的な判決により、終末を迎えるはずだったが、歴史は事の成り行きを変

えていった 45。

第二段階(1341-1347)

皇帝アンドロニコス3世の死後、混乱した状況が続いた。大公爵アレ

クシオス·アポカフコス 46 の支持を得たヨハネス·カレカス総主教は、当時未

成年だった後継者、ヨハネス·カンタクゼノス 47 の証人がブルガリア人に対

立するための軍事行動で不在だったことを利用し、カンタクゼノスを国家

全ての権威から外すよう、皇太后アンナ 48 を説得させ、共に実行に移した。

▪43 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 56-58.

▪44 Π. Κ. Χρήστου, Εκκλησιαστική Γραμματολογία. Πατέρες και Θεολόγοι του

Χριστιανισμού τ. Β΄, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 20032, p. 61.

▪45 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 25.

▪46 大公爵は、ビザンティンで最高の格式を持った一人で、海軍の対象であった。アレ

クシオス1世コムネノス(1057-1118)により爵位が認定された。十四世紀に

は、首長且つ皇帝の補佐役として、ビザンティンの貴族制度の主権、更に官僚としての

司法権を得た。

▪47 ヨハネス6世カンタクゼノス(1295-1383)。

▪48 サヴォイアのジョヴァンナ(アンナ)(1306-1365)。

16

軍はその決断に応じず、カンタクゼノスを皇帝の座に任命した 49。

聖グレゴリオス·パラマスは公然とヨハネス·カンタクゼノス側に付いた。

そんなパラマスを敵と見なした総主教は、1341年の教会会議で定めら

れた事を再解釈し、「タボルの光」と静寂的祈り方に関しては、ヘシュカ

ストの正当性が示されたが、教義の件についてはそうでないと主張した。

連続的に行われた会議の中、グレゴリオス·パラマスの書物の批判に成功し、

1342年の秋、パラマスを「不可解」の修道院 (μονὴ Ἀκαταλήπτου) に

続いて、1344年11月、パラマスを破門し、その事に関連する文章を、

当時行われた教会会議の議事録に含めた 50。

時が経つに連れ、ヨハネス·カンタクゼノスは事態の中心になって行っ

た。皇太后アンナは、総主教を支持してはならないと悟った。その当日、

カンタクゼノスが征服者としてコンスタンティノポリスへ進入する前に、

教会会議を招集し、グレゴリオス·アキンディノスとその支持者の有罪宣告、

聖グレゴリオス·パラマスの解放、そしてヨハネス·カレカスの罷免へと進展

した 51。

交渉をもって、ヨハネス·カンタクゼノスとヨハネス·パレオロゴス 52 が

共同皇帝に任命され、6年間続いた内戦は終わりを告げた。ヨハネス·カレ

カスは1347年12月に病没し、グレゴリオス·アキンディノスは134

8年に亡くなった 53。

▪49 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 68.

▪50 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 69-73.

▪51 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 75-77.

▪52 ヨハネス·5世パレオロゴス(1332-1391)。

▪53 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 77-80.

17

第三段階(1347-1368)

ヨハネス·カレカスの死後、ヘシュカスム反対派としての奮闘の指導を

ニキフォロス·グリゴラスが引き受けた 54。論争が続き、ヨハネス·カンタク

ゼノスとカリストス総主教は、1351年5月28日に新たな教会会議を

強制的に招集した。その会議では、神の本質と「造られざる」神聖なエネ

ルゲイアの区別に関した神学的、ヘシュカスム的見解の公正、その反対に、

バルラアム、アキンディノス、そして全ての支持者の破門が決定された 55。

▪54 ニキフォロス·グリゴラス(1295-1360)は、ポントス地方のイラクリア出

身だった。早くして宮殿に貢献し、新しく建設されたコーラ修道院 (μονὴ τῆς Χώρας) にて哲学を指導した。同盟反対派で、内戦期間中でさえヨハネス·カンタクゼノスの友且

つ支持者であった。1349年には、ヘシュカスムに対する争いを止めることを条件に、

ヨハネス·カンタクゼノスから総主教の座を勧められたが、グリゴラスは自身の概念の放

棄を拒否した。ニキフォロス·グリゴラスとグレゴリオス·パラマスの対比は、重大な教

義の議論にあるというよりも、ビザンティン社会において、聖グレゴリオス·パラマスの

性質の優勢による哲学者グリゴラスの譲歩された利己主義にあるとされている。どんな

私情ががあったにせよ、一見、図らず論争に巻き込まれたようだったが、ニキフォロス·

グリゴラスはヘシュカスム反対派と同様なスコラ式条件且つ見解の持ち主であった

{Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 83. Π. Κ. Χρήστου, Εκκλησιαστική

Γραμματολογία. Πατέρες και Θεολόγοι του Χριστιανισμού τ. Β΄, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 20032, p. 63, 65. Βέλικο Ραντούνοβιτς, Τα έργα του Αγίου Γρηγορίου

Παλαμά στη σερβική γραμματεία του 14ου αιώνα, διδακτορική διατριβή, Θεσσαλονίκη 1998, Εθνικό Κέντρο Τεκμηρίωσης 14/4/1999, p. 75. Γρ.

Παπαμιχαήλ, «Αἱ ἡσυχαστικαὶ ἔριδες τοῦ ιδ΄ αἰῶνος», Εκκλησιαστικός Φάρος

5/1910, p. 392 ( 以 降 ) , Δημ. Μόσχος, Οι φιλοσοφικές προϋποθέσεις του

Αντιησυχασμού του Νικηφόρου Γρηγορά, διδακτορική διατριβή, Αθήνα 1994, Εθνικό Κέντρο Τεκμηρίωσης 4/7/2001, p. 252}。

▪55 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 85, 96-98.

18

ニキフォロス·グリゴラスは、修道士だったコーラ修道院内 (μονὴ τῆς

Χώρας) に拘束され 56、その後、解放されてからは、偉力を失っていた 57。

1351年の教会会議でパラマスの神学理論が勝利を収めたことで、

根本的にヘシュカスム論争が終了した。しかし、ディミトリオス·キドニス

58 のように、西方のスコラ神学と接点があった、幾人かの神学者は事態を

蒸し返した。ディミトリオス·キドニスは、ビザンティンのスコラ神学の公

式な主張者とされている 59。

▪56 Ιω. Ε. Αναστασίου, Εκκλησιαστική Ιστορία τ. Β΄, εκδ. Επίκεντρο, Θεσσαλονίκη

χ.χ., p. 103.

▪57 Π. Κ. Χρήστου, Εκκλησιαστική Γραμματολογία. Πατέρες και Θεολόγοι του

Χριστιανισμού τ. Β΄, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 20032, p. 63-64.

▪58 ディミトリオス·キドニス(1324-1397)は、テッサロニキ出身の貴族の子

孫で、ヨハネス·カンタクゼノスの公邸で上役職員として勤めた。スペイン系ドミニカ人

の修道士にラテン語を教わった。教科書が不備だったため、文法の規則を適用させる学

習ができるよう、その教師からラテン語文の見本となる本が与えられた。それは有名な

トマス·アクィナス著『対異教徒大全 ( Summa contra gentiles) 』だった。アクィナス

の思考に感銘を覚え、本の内容が同国人にも親しみやすくなるよう、その翻訳を決める

ほどであった。斯くして、『対異教徒大全』、『神学大全 ( Summa Theologiae) 』の

一部、その他にローマカトリック神学者の著作が訳された。非常に統一主義な大臣だっ

たディミトリオス·キドニスは、1357年に、皇帝ヨハネス5世カンタクゼノスの付き

添いでローマへ行き、共にローマカトリック教会に加盟した。彼は、単なるローマカト

リック愛好会ではなく、ビザンツ社会の秀でた者が加入した、ローマカトリック教会党

派を立ち上げたが、その影響力は一般市民には及ばなかった。1397年に、クレタ島

でローマカトリック教徒として亡くなった (Martin Hinterberger, «Από το ορθόδοξο

Βυζάντιο στην καθολική Δύση. Τέσσερις διαφορετικοί δρόμοι», Το Βυζάντιο και οι

απαρχές της Ευρώπης, επιμ. Ελένη Γραμματικοπούλου, εκδ. Εθνικό Ίδρυμα

Ερευνών, Αθήνα 2004, p. 20-24. Π. Κ. Χρήστου, Εκκλησιαστική Γραμματολογία.

Πατέρες και Θεολόγοι του Χριστιανισμού τ. Β΄, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη

20032, p. 66-67)。

▪59 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 110-111.

19

アギオン·オロス (Ἅγιον Ὄρος)で起きた最後の騒動は、1368年の

教会会議にて対処され、修道士プロホロス·キドニス 60 の聖性の認識により、

ヘシュカスム論争は決定的に完了した 61。ヘシュカスム反対派の意見は、

ローマカトリック教的思考を持った者の間に制限された 62。

▪60 プロホロス·キドニス(1335-1369)は、ディミトリオス·キドニスの弟で、

終期のヘシュカスム論争の革新者だった。テッサロニキで生まれ、大ラブラ修道院の修

道士になった。トマス·アクィナス著『神学大全 ( Summa Theologiae) 』を完成させ、

アウグスティヌスとボエチウスの作品を翻訳した。本人の作品『ウーシアとエネルゲイ

アにかかわるもの ( Περὶ οὐσίας καὶ ἐνεργείας)』を通し、神学の分野においてのヘシュ

カスムを批評した。その他に、『 Ἔλεγχος εἰς τὰς παραχρήσεις τῶν κειμένων ῥητῶν

ἐν τῷ κατὰ τοῦ Ἐφέσου καὶ Γρηγορᾷ τόμῳ 』 、 そ し て 『 Ἀπάντησις πρὸς τοὺς

Παλαμίτας μοναχοὺς τοῦ Ἁγίου Ὄρους』がある。その中で、西方の合理主義的精神が

彼の思考を完全に支配していたことが簡単に分かる。大ラブラ修道院の修道者、それか

らイエリソスとアギオン·オロスの司教は、プロホロスを破門した上、彼を敵対する書簡

を、総主教フィロテオス·コキノスへ送った。1368年4月16日、総主教は教会会議

を 招 集 し 、 プ ロ ホ ロ ス · キ ド ニ ス の 法 衣 を 剥 奪 し 、 破 門 さ せ た (Βενιζέλος

Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ. Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 112, 117-118, 124-125. Π. Κ. Χρήστου, Εκκλησιαστική

Γραμματολογία. Πατέρες και Θεολόγοι του Χριστιανισμού τ. Β΄, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 20032, p. 68-69)。

▪61 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 26.

▪62 Π. Κ. Χρήστου, Εκκλησιαστική Γραμματολογία. Πατέρες και Θεολόγοι του

Χριστιανισμού τ. Β΄, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 20032, p. 69.

20

論争の背景

本質主義と「造られざるエネルゲイア」の神学

五世紀、西ローマ帝国の滅亡が記され、その地は政治的に東ローマ帝

国から切り離されてしまった。その事により、文化の域から見ると、西方

のキリスト教教育で、ラテン語のみが利用される結果となった。東方のギ

リシャ語話者と西方のラテン語話者との間にあった繋がりと共に、弱まっ

てしまった文化的な繋がりも解けてしまった。

ギリシャ人教父は、当初から壮大な教育施設にて、古代ギリシャ文明

の修辞学と哲学を学んでいたため、ギリシャ哲学を楽に活用し、容易に変

換できた。それ故、キリスト教神学が正しく解釈されるよう、ギリシャ哲

学を転換し、不安定だった位格 63, γ の意義を、安定した存在論のカテゴリー

に指定した。

▪63 古代ギリシャ思考は「美しき世界」、つまり一致と調和を作り上げ、そこからその

本質的な構造と合成が安定した、不変の世界が成り立っている。予期せぬことや自由な

どといった、調和を脅かすものは拒絶され、各差異は、和合した「在るもの」と結びつ

かないことで、「存在しない (μὴ εἶναι)もの」と見なされている。その条件の下、位格

の意義は存在論的にありえない。人間の「存在」を確実にしている精神は、各個の人間

と永久に繋がっているのではない。永遠性と個性の形成の弱さは、古代ギリシャ思考全

体の特徴である (Ιω. Ζηζιούλας, Μητροπολίτης Περγάμου, «Από το προσωπείον εις

το πρόσωπον. Η συμβολή της πατερικής θεολογίας εις την έννοιαν του προσώπου», Ιμάτια Φωτός Αρρήτου, διεπιστημονική προσέγγιση του προσώπου, επιμ. Λ. Σιάσος, εκδ. Π. Πουρναράς, Θεσσαλονίκη 2002, p. 75-77)。

▪γ 人格又は位格。ギリシャ語では「プロソポン(πρόσωπον)」又は「ヒュポスタシス

(ὑπόστασις)」(翻訳者の注釈)。

21

対し、ラテン語を主にした西方の神学においては、古代ギリシャの本

質主義的考察の転換が不可能(ギリシャ教育に欠けていたため)だった。

従い、位格ではなく、本質(ウーシア)が優先された状態に制限され、定

着した 64。

正教の伝統による、西方の本質主義的見解に対する非難は、聖グレゴ

リオス·パラマスが、ヘシュカスム反対派の知覚に反論し、述べた言葉に特

徴的に表れている。「神がモーセに顕現した時、神はモーセに答えて、

『私はウーシアである (ἐγώ εἰμι ἡ οὐσία)。』とは言わず、『私は在るもの

である(ἐγώ εἰμι ὁ ὤν)』と言われた。なぜならば、在るものがウーシアか

らではなく、ウーシアが在るものに「由来する」からである。在るもの

そのものは全体として自らのうちに存在(エイナイ)を含んでいたからで

ある。」65, δ

▪64 Μ. Μπέγζος, «Οι πρώτες διαφοροποιήσεις ανατολικού (ελληνόφωνου) και

δυτικού (λατινόφωνου) χριστιανισμού», Μ. Μπέγζος, Στ. Πορτελάνος, Αλ.

Καριώτογλου και Γ. Μεταλληνός, Η Ορθοδοξία ως κληρονομιά: Η Ορθόδοξη

Εκκλησία σε Ανατολή και Δύση τ. Β΄, εκδ. Ελληνικό Ανοικτό Πανεπιστήμιο

(Ε.Α.Π.), Πάτρα 2001, p. 25-27.

▪65 «Καὶ τῷ Μωυσῇ δὲ χρηματίζων ὁ Θεός, οὐκ εἶπεν “ἐγώ εἰμι ἡ οὐσία”, ἀλλ’

“ἐγώ εἰμι ὁ ὤν”· οὐ γὰρ ἐκ τῆς οὐσίας ὁ ὤν, ἀλλ’ ἐκ τοῦ ὄντος ἡ οὐσία· αὐτὸς γὰρ ὁ

ὢν ὅλον ἐν ἑαυτῷ συνείληφε τὸ εἶναι» [Γρηγόριος Παλαμάς (グレゴリオス·パラマ

ス), «Ὑπὲρ τῶν ἱερῶς ἡσυχαζόντων {『聖なるヘシュカスト(静寂主義者)のための

弁護』}» 3, 2, 12, Γρηγορίου του Παλαμά Συγγράμματα τ. Α΄, επιμ. Π. Χρήστου, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 19884, p. 666].

▪δ 大森正樹、「東方教父における神現と神名解釈の問題」、『中世思想研究43号』5

2頁参照(翻訳者の注釈)。

22

つまり、存在(オン、ὄν)の在り方というのは、その本質の派生的用語で

はない 66

ウーシア無しではヒュポスタシス (ὑπόστασις) がありえないように、

ヒュポスタシスから隔離されたウーシアは無いと聖グレゴリオス·パラマス

は強調している 67。パラマスは、神とそのウーシアを単に同一視すること

▪66 John D. Zizioulas, «Human Capacity and Human Incapacity: A Theological Exploration of Personhood», Scottish Journal of Theology 28(no5)/1975, p. 416.

聖グレゴリオス·パラマス、そして教父全般にとって、統一されたウーシアは以前から無

く、後に位格が出現した。従って、位格はウーシアの派生的な役割をしているのはなく、

又、ウーシアも自ら存在の原因ではないのである (Στ. Γιαγκάζογλου, «Πρόσωπο και

ετερότητα. Δοκίμιο για μια θεολογία της ετερότητας», Ίνδικτος 21/2006, p. 98-99)。

▪67 Στ. Γιαγκάζογλου, Προλεγόμενα στη θεολογία των ακτίστων ενεργειών. Σπουδή

στον Άγιο Γρηγόριο Παλαμά, εκδ. «Τέρτιος», Κατερίνη 1992, p. 46. 「人の頭又は心

について言う場合、人は頭と心無しに存在し得ると主張しているのでもなく、頭脳(ヌ

ース)に関し、意見と思考があると言う場合、それなしでは頭脳は無いと主張している

わけでもない。それから、ウーシアについて、誰かが位格(ヒュポスタシス)に触れる

時、ウーシアは位格無しに存在するとも、位格はウーシア無しで存在するとも、決して

主張していないのである。」[«οὐ γὰρ ὅτε λέγομεν κεφαλὴν ἢ καρδίαν ἀνθρώπου

χωρὶς κεφαλῆς καὶ καρδίας ἄνθρωπον εἶναί φαμεν, οὐδ᾿ ὅτε περὶ τὸν νοῦν εἶναι τὴν

δόξαν καὶ τὴν διάνοιαν, εἶναι νοῦν λέγομεν χωρὶς αὐτῶν, οὐδ᾿ εἰ τὰς ὑποστάσεις

περὶ τὴν οὐσίαν εἴποι τις, εἶναι λέγει χωρὶς ὑποστάσεως οὐσίαν ἢ χωρὶς οὐσίας

ὑπόστασιν» {Γρηγόριος Παλαμάς (グレゴリオス·パラマス), «Πρὸς Ἰωάννην Γαβρᾶν

(ヨハネス·ガブラスへ送る)» 19, Γρηγορίου του Παλαμά Συγγράμματα τ. Β΄, επιμ. Π.

Χρήστου, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 1966, p. 346}].「ウーシアとエネルゲイア

無くして、位格の存在は不可能である。」 [«Ὑπόστασιν δὲ χωρὶς οὐσίας καὶ

ἐνεργείας εἶναι ἀδύνατον» {Γρηγόριος Παλαμάς (グレゴリオス·パラマス), «Πρὸς

Δαμιανόν (ダミアヌスへ送る)» 18, Γρηγορίου του Παλαμά Συγγράμματα τ. Β΄, επιμ.

Π. Χρήστου, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 1966, p. 474}].「位格とウーシアを区別

し、その違いを談話の中で述べるが、ウーシア無しに位格は存在し得ない。」[«Καὶ

τὴν ὑπόστασιν γὰρ τῆς οὐσίας διαιροῦμεν καὶ τὴν πρὸς ἐκείνην διαφορὰν

ἐπιδείκνυμεν περὶ αὐτῆς διαλεγόμενοί τισιν, ἀλλ᾿ οὐκ ἔστιν ἰδεῖν ὑπόστασιν χωρὶς

23

を否定したことで、神の現存においてのウーシアとヒュポスタシスの区別

からウーシアとエネルゲイアの区別へと誘導された 68。

「造られざる」神聖なエネルゲイアは、被造物を通し、直接伝達でき

る。聖なる自然は、神聖なる位格(ヒュポスタシス)に所有されているか

らである 69。

ウーシアから分離されず、区別されている非被造物のエネルゲイアの

神学は、位格を台とし、それを見下す全ての本質主義的認識を排除した。

スコラ学とヘシュカスムの神学

十二世紀、ペトルス·ロンバルドゥス(1100-1160)によるス

コラ神学の誕生は、東西教会の溝を更に悪化させた。伝統的な神学は放棄

され、二つの教会を共通する言葉は、既に失われていた。スコラ神学の中

心的人物にトマス·アクィナス(1225-1274)の名が浮かび上がる

70。

οὐσίας» {Γρηγόριος Παλαμάς (グレゴリオス·パラマス), «Πρὸς Ἰωάννην Γαβρᾶν (ヨ

ハネス·ガブラスへ送る)» 30, Γρηγορίου του Παλαμά Συγγράμματα τ. Β΄, επιμ. Π.

Χρήστου, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 1966, p. 358-359}].

▪68 Στ. Γιαγκάζογλου, Προλεγόμενα στη θεολογία των ακτίστων ενεργειών. Σπουδή

στον Άγιο Γρηγόριο Παλαμά, εκδ. «Τέρτιος», Κατερίνη 1992, p. 66.「神は三つに存

在する故、ウーシア、エネルゲイア、三位一体の位格である。」[«Τριῶν ὄντων τοῦ

Θεοῦ, οὐσίας, ἐνεργείας, Τριάδος ὑποστάσεων θείων» {Γρηγόριος Παλαμάς (グレ

ゴリオス·パラマス), Κεφάλαια φυσικά, θεολογικά, ἠθικά τε καὶ πρακτικά (自然学、神

学、論理学、実践学について) οε΄, PG 150, 1173Β}].

▪69 Στ. Γιαγκάζογλου, Προλεγόμενα στη θεολογία των ακτίστων ενεργειών. Σπουδή

στον Άγιο Γρηγόριο Παλαμά, εκδ. «Τέρτιος», Κατερίνη 1992, p. 72.

▪70 Στ. Πορτελάνος, «Το σχίσμα Ρώμης-Κωνσταντινουπόλεως και η πολεμική

αντιπαράθεση Ορθοδοξίας και Ρωμαιοκαθολικισμού», Μ. Μπέγζος, Στ.

Πορτελάνος, Αλ. Καριώτογλου και Γ. Μεταλληνός, Η Ορθοδοξία ως κληρονομιά: Η Ορθόδοξη Εκκλησία σε Ανατολή και Δύση τ. Β΄, εκδ. Ελληνικό Ανοικτό

Πανεπιστήμιο (Ε.Α.Π.), Πάτρα 2001, p. 90.

24

聖グレゴリオス·パラマスは、「神の働き(エネルゲイア)」に関する

こと、そして人間が「造られざる光」に与ること、更に神秘的な生活と知

性の祈りの教えを通し、西方のスコラ学と闘った 71。

教会の精神を象っているのはヘシュカストだということを、彼らの勝

利そのものが証明している。ヘシュカスムは教会の一部(高位聖職者又は

禁欲主義者)だけでなく、全階層と関連していたということである 72。

ヘシュカスム反対派と「聖なるヘシュカスト (ἱερῶς ἡσυχάζοντες)」の

弁護を引き受けたグレゴリオス·パラマスの争いには、政治的又神学的背景

があった。論争の主人公と共に、理性主義を主点とした西方精神、それか

ら聖書と教父の精神に忠実であるよう努力していた伝統的正教、その二つ

の文化がぶつかり合った。バルラアムとヒューマニスト(人文主義者)

(グレゴリオス·アキンディノス、ニキフォロス·グリゴラスなど)が哲学を

優先していたことにパラマスは、正教の伝統が腐敗される危険性を見て取

った。その洞察力の正当性は、特に論争の最後の段階で、ローマカトリッ

ク神学者の姿勢を目の当たりにし、完全に明らかになった。彼らは、西方

文化、そしてスコラ学的神学(古代ギリシャ哲学において重要だった)と

戯れることで、スコラ学の理性主義を借用し、最終的には大多数の人が西

方教会へ入信していった 73。

▪71 Στ. Πορτελάνος, «Το σχίσμα Ρώμης-Κωνσταντινουπόλεως και η πολεμική

αντιπαράθεση Ορθοδοξίας και Ρωμαιοκαθολικισμού», Μ. Μπέγζος, Στ.

Πορτελάνος, Αλ. Καριώτογλου και Γ. Μεταλληνός, Η Ορθοδοξία ως κληρονομιά: Η Ορθόδοξη Εκκλησία σε Ανατολή και Δύση τ. Β΄, εκδ. Ελληνικό Ανοικτό

Πανεπιστήμιο (Ε.Α.Π.), Πάτρα 2001, p. 92.

▪72 Δημ. Μόσχος, Οι φιλοσοφικές προϋποθέσεις του Αντιησυχασμού του Νικηφόρου

Γρηγορά, διδακτορική διατριβή, Αθήνα 1994, Εθνικό Κέντρο Τεκμηρίωσης

4/7/2001, p. 40.

▪73 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 127.

25

ヘシュカストの神学の

基本原理

「ウーシア」と「エネルゲイア」の関係

聖グレゴリオス·パラマスによる「ウーシア」と「エネルゲイア」につ

いての教えは、個人の哲学思想から実ったのではなく、バイブルと教父の

伝統の続き且つ要約である 74。

旧約聖書では既に、神の「顔」と「うしろ」の区別がされている 75。

それにもかかわらず、新約聖書では「神はただひとり不死を保ち、…」と

いうことで、人間には近づき難く、知りえなく描写されている 76。同時に、

一方では、天地と本当の関係を持っており、「神の見えない性質、すなわ

ち神の永遠の力と神性」77 があらわとなる創造だけでなく、イイスス·ハリ

ストスの人の性を復活させる「神の力(エネルゲイア)」を通して成り立

っている 78。

▪74 Αν. Κεσελόπουλος, Πάθη και Αρετές στη διδασκαλία του Αγίου Γρηγορίου

Παλαμά, εκδ. Δόμος, Αθήνα 1982, p. 11.

▪75 出エジプト記、第33章13-23。

▪76「神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た

者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、

アァメン(テモテへの第一の手紙、第6章16)」{«ὁ μόνος ἔχων ἀθανασίαν, φῶς

οἰκῶν ἀπρόσιτον, ὃν εἶδεν οὐδεὶς ἀνθρώπων οὐδὲ ἰδεῖν δύναται» (Α΄ Τιμ. 6, 16)}。

▪77「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被

造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁

解の余地がない(ローマ人への手紙、第1章20)」{«τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτοῦ ἀπὸ

κτίσεως κόσμου τοῖς ποιήμασι νοούμενα καθορᾶται, ἥ τε ἀΐδιος αὐτοῦ δύναμις καὶ

θειότης» (Ρωμ. 1, 20)}。

26

更に、聖霊は思いのままに「働き」、教会に賜物を分け与えているように

記されている 79。

しかし、主にウーシアとエネルゲイアについては、弁証学の時代(古

代教会時代、一世紀~六世紀)から、神学の思考上、知られていた 80。ア

テネのアテナゴラス(二世紀)はウーシアとエネルゲイアを明白に区別し

ている 81。アンティオキアのテオフィロス(二世紀)は異なった専門用語

を使いながらも、根本的にその区別に触れている 82。それでも尚、神の本

▪78「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよ

みがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである(コロ

サイ人への手紙、第2章12)」{«συνταφέντες αὐτῷ ἐν τῷ βαπτίσματι, ἐν ᾧ καὶ

συνηγέρθητε διὰ τῆς πίστεως τῆς ἐνεργείας τοῦ Θεοῦ τοῦ ἐγείραντος αὐτὸν ἐκ τῶν

νεκρῶν» (Κολ. 2, 12)}。

▪79「すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、

それらを各自に分け与えられるのである(コリント人への第一の手紙、第12章11)」

{«πάντα δὲ ταῦτα ἐνεργεῖ τὸ ἓν καὶ τὸ αὐτὸ Πνεῦμα, διαιροῦν ἰδίᾳ ἑκάστῳ καθὼς

βούλεται» (Α΄ Κορ. 12, 11)}。

▪80 Γ. Δ. Μαρτζέλος, Ουσία και ενέργειαι του Θεού κατά τον Μέγαν Βασίλειον.

Συμβολή εις την ιστορικοδογματικήν διερεύνησιν της περί ουσίας και ενεργειών του

Θεού διδασκαλίας της Ορθοδόξου Εκκλησίας, Επιστημονική Επετηρίδα Θεολογικής

Σχολής, εκδ. Α.Π.Θ., Θεσσαλονίκη 1984, p. 18.

▪81「神の本質、知識、働き、そしてそこから続き、敬虔の教えを密封させる全てのも

の、真実を何一つ中傷せずにはおかなかった」[«Οὐδὲν γὰρ τῶν ἀληθῶν οἱ τοιοῦτοι

κατέλιπον ἀσυκοφάντητον, οὐ τὴν οὐσίαν τοῦ Θεοῦ, οὐ τὴν γνῶσιν, οὐ τὴν

ἐνέργειαν, οὐ τὰ τούτοις ἐφεξῆς καθ’ εἱρμὸν ἑπόμενα, καὶ τὸν τῆς εὐσεβείας ἡμῖν

ὑπογράφοντα λόγον» {Αθηναγόρας(アテネのアテナゴラス), Περὶ Ἀναστάσεως

τῶν νεκρῶν(死者の復活について) 1, PG 6, 976Α}]。

▪82「神の姿は名状し難く、表現しえず、人間の眼には見えない。神の栄光に当てはま

るものはなく、その大いさは想像しきれず、高さは思いもよらず、強さは比較できず、

27

質と神の働きの区別をより詳述しているのはエイレナイオス(二世紀~三

世紀初期)で、グノーシス主義の教えを作り替えたのである 83。エイレナ

イオスによると、創造的且つ思慮深い力が存在するものの全ての原因であ

り、神の働きの要素である 84。

神の本質と働きの区別に関しては、アレクサンドリアの神学者クレメ

ンス(二世紀初期~三世紀)とオリゲネス(二世紀末~三世紀)にも見出

せるが、その神学を特徴付けている哲学による反影が、先行する神学思考

から、二人を個別化している 85。

知恵は高踏派で、善良さは真似できず、物事の出来栄えは話しきれないほどである。神

を光と呼称すれば、その被造物を呼ぶことになる。強さと呼称すれば、その権力を呼ぶ

ことになる。力と呼称すれば、その精力を呼ぶことになる。人間の眼には見えず、神意

と 創 造 に よ り 、 神 を 見 、 そ し て 分 か る 」 [«τὸ μὲν εἶδος τοῦ Θεοῦ ἄρρητον καὶ

ἀνέκφραστον καὶ μὴ δυνάμενον ὀφθαλμοῖς σαρκίνοις ὁραθῆναι. Δόξῃ γάρ ἐστιν

ἀχώρητος, μεγέθει ἀκατάληπτος, ὕψει ἀπερινόητος, ἰσχύϊ ἀσύγκριτος, σοφίᾳ

ἀσυμβίβαστος, ἀγαθωσύνῃ ἀμίμητος, καλοποιΐᾳ ἀνεκδιήγητος. Εἰ γὰρ φῶς αὐτὸν

εἴπω, ποίημα αὐτοῦ λέγω... ἰσχὺν ἐὰν εἴπω, κράτος αὐτοῦ λέγω· δύναμιν ἐὰν εἴπω, ἐνέργειαν αὐτοῦ λέγω... μὴ δύνασθαι ὁραθῆναι ὑπὸ ὀφθαλμῶν ἀνθρωπίνων· διὰ δὲ

τῆς προνοίας καὶ τῶν ἔργων αὐτοῦ βλέπεται καὶ νοεῖται» {Θεόφιλος Αντιοχείας (ア

ンティオケアのテオフィロス), Πρὸς Αὐτόλυκον (アウトリュコスへ宛てた) 1, 3-5, PG

6, 1028Β-1032Α}]。

▪83 Ειρηναίος Λουγδούνου (ルグドゥム-現リヨン-のエイレナイオス), Ἔλεγχος καὶ

ἀνατροπὴ τῆς ψευδωνύμου γνώσεως (『異端反駁』) 3, 24, 1-2, PG 7, 966A-967B.

▪84「神の意志と働きが、全ての時、場、世紀、それからどんな性質の創造的且つ思慮

深い原因である」[«Θέλησις καὶ ἐνέργεια Θεοῦ ἐστιν ἡ παντὸς χρόνου καὶ τόπου καὶ

αἰῶνος καὶ πάσης φύσεως ποιητική τε καὶ προνοητικὴ αἰτία» {Ειρηναίος

Λουγδούνου (ルグドゥム-現リオン-のエイレナイオス), Fragmenta deperditorum operum («Ἀποσπάσματα (『引用文集』) ») 5, PG 7, 1232B}]。

▪85 Γ. Δ. Μαρτζέλος, Ουσία και ενέργειαι του Θεού κατά τον Μέγαν Βασίλειον.

Συμβολή εις την ιστορικοδογματικήν διερεύνησιν της περί ουσίας και ενεργειών του

Θεού διδασκαλίας της Ορθοδόξου Εκκλησίας, Επιστημονική Επετηρίδα Θεολογικής

Σχολής, εκδ. Α.Π.Θ., Θεσσαλονίκη 1984, p. 20.

28

ウーシアとエネルゲイアを区別する神学は、大アタナシオス(四世紀)

により、転換期を迎えた。大アタナシオスは、三位一体の位格の本質(ウ

ーシア)と被造物の本質が明白に区別されるよう、初めて、その区別の存

在論的意義を発展させた。それによると、三位一体はエネルゲイアを通し

てでなければ、被造物と関連しないのである 86。

大バシレイオス(四世紀)は、神聖なるウーシアとエネルゲイアの区

別と神聖なるウーシアとヒュポスタシス(個的実体)の区別を結合させ、

初めて神学に制定した 87。大バシレイオスは、三位一体について、それぞ

れの位格は互いにウーシアにより関連しているが、世間とはエネルゲイア

により関連しているとしている。つまり、神は世の中と、本質を通してで

なく、その働き(エネルゲイア)を通し交わりを持っている 88。

従って、神を知り、理解し得る、ギリシャ教父の間では、神の完全な

る超越性が守られつつ、不可知論が及ぼされる危険性が遠のいていった。

西方にとって、恩寵は人知の及ばない質だが、被造物であり、法律的に弁

護の付与が許可される用語を表現している。反対に、東方にとって、恩寵、

神の働き(エネルゲイア)は、人間を存在論的に神聖視し、とにかく神の

恩寵により、真の「新しく造られた者」とされている 89。

▪86 Γ. Δ. Μαρτζέλος, Ουσία και ενέργειαι του Θεού κατά τον Μέγαν Βασίλειον.

Συμβολή εις την ιστορικοδογματικήν διερεύνησιν της περί ουσίας και ενεργειών του

Θεού διδασκαλίας της Ορθοδόξου Εκκλησίας, Επιστημονική Επετηρίδα Θεολογικής

Σχολής, εκδ. Α.Π.Θ., Θεσσαλονίκη 1984, p. 21.

▪87 Γ. Δ. Μαρτζέλος, Ουσία και ενέργειαι του Θεού κατά τον Μέγαν Βασίλειον.

Συμβολή εις την ιστορικοδογματικήν διερεύνησιν της περί ουσίας και ενεργειών του

Θεού διδασκαλίας της Ορθοδόξου Εκκλησίας, Επιστημονική Επετηρίδα Θεολογικής

Σχολής, εκδ. Α.Π.Θ., Θεσσαλονίκη 1984, p. 25.

▪88 Π. Κ. Χρήστου, Η Κοινωνιολογία του Μεγάλου Βασιλείου, Αθήναι 1951, p. 24.

▪89 Π. Ευδοκίμοφ, Η Ορθοδοξία («Βιβλιοθήκη Ορθοδόξου Μαρτυρίας» 1), μτφρ.

Αγαμ. Τ. Μουρτζόπουλος, εκδ. Β. Ρηγόπουλος, χ.τ. 1972, p. 37.

29

前述の通り、聖グレゴリオス·パラマスは、「与りえぬ (ἀμέθεκτος)」

神のウーシアと「与りうるもの (μεθεκτή)」エネルゲイアの間に区別が付

くよう、教会の伝統、古来の教えを進展させ、根本的に系統立てた 90。

聖グレゴリオス·パラマスの神学的考え方は、天地創造に関した聖書の

解釈から始まった。神の「造られざる」特質と世の「造られた」性質とい

った二つの全く違う性質があるという発想が、その解釈の結論である。神

と創造の間にある、改変し得ない存在論的な隔たりが、相互の本質的な交

わりを妨げている 91。そこで、パラマスが前提としている神学的原理とは、

どんな場合でも、神のウーシアに視点を置くと、神は完全に人知に及ばな

いということである 92。

存在とは、生き生きとした表明、動き、そして命である。働きを示さ

ない神は存在しない 93。従って、さまざまなエネルゲイアは存在論的に繋

がっており、その存在の要素となっている神のウーシアを明らかにしてい

る 94。

▪90 Στ. Γιαγκάζογλου, Προλεγόμενα στη θεολογία των ακτίστων ενεργειών. Σπουδή

στον Άγιο Γρηγόριο Παλαμά, εκδ. «Τέρτιος», Κατερίνη 1992, p. 11.

▪91 Γ. Δ. Μαρτζέλος, Ουσία και ενέργειαι του Θεού κατά τον Μέγαν Βασίλειον.

Συμβολή εις την ιστορικοδογματικήν διερεύνησιν της περί ουσίας και ενεργειών του

Θεού διδασκαλίας της Ορθοδόξου Εκκλησίας, Επιστημονική Επετηρίδα Θεολογικής

Σχολής, εκδ. Α.Π.Θ., Θεσσαλονίκη 1984, p. 15.

▪92 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 228.

▪93 「エネルゲイアの無いものは働らかず、働きかけを示さないものは存在しない」

[«Τὸ δὲ μὴ ἔχον ἐνέργειαν ἀνενέργητόν ἐστι, τὸ δὲ ἀνενέργητον καὶ ἀνύπαρκτον»

{«Συνοδικός τόμος του 1351 (1351年、教会会議の文書)», Ιω. Καρμίρης, Τα

δογματικά και συμβολικά μνημεία της Ορθοδόξου Καθολικής Εκκλησίας, τόμος Ι, Εν

Αθήναις 1952, p. 322}]。Γρηγόριος Παλαμάς (グレゴリオス·パラマス), «Πρὸς

Ἀκίνδυνον Ἀντιρρητικὸς πρῶτος (アキンディノスへ宛てた第一の反論文)» 1, 15, Γρηγορίου του Παλαμά Συγγράμματα τ. Γ΄, επιμ. Π. Χρήστου, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 1970, p. 50. p. 62、32 巻を参照せよ。

30

個々の独自性が強調されたエネルゲイアの「造られざる」性質は、典

型的な新プラトン主義(ネオプラトニズム)による、汎神論又は神的放散

物のどの意義に関しても有利ではないが、イイスス·ハリストスにおいて、

人間、更に創造物、全ての変容を保証し、約束している 95。

聖グレゴリオス·パラマスによると、神のエネルゲイアに与ることには、

ハリストス(キリスト)中心主義的、そして神秘主義的土台がある。三位

一体の二つ目の位格、神の御言葉(ロゴス、λόγος)は、人間性を完全に取

り入れ、身体を通し、神化の源、そして神成の場となった。

Γρηγόριος Παλαμάς (グレゴリオス·パラマス), «Πρὸς Ἀκίνδυνον Ἀντιρρητικὸς

δεύτερος (アキンディノスへ宛てた第二の反論文)» 2, 48, Γρηγορίου του Παλαμά

Συγγράμματα τ. Γ΄, επιμ. Π. Χρήστου, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 1970, p. 120.

Γρηγόριος Παλαμάς (グレゴリオス·パラマス), «Ἐπιστολὴ Γ΄ πρὸς Ἀκίνδυνον (アキ

ンディノスへ宛てた第三の書簡)» 3, Γρηγορίου του Παλαμά Συγγράμματα τ. Α΄, επιμ.

Π. Χρήστου, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 19884, p. 297. Γρηγόριος Παλαμάς (グ

レゴリオス·パラマス), «Ὑπὲρ τῶν ἱερῶς ἡσυχαζόντων {聖なるヘシュカスト(静寂主

義者)のための弁護}» 3, 1, 24, Γρηγορίου του Παλαμά Συγγράμματα τ. Α΄, επιμ. Π.

Χρήστου, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 19884, p. 637. 以上を参照せよ。

▪94 Στ. Γιαγκάζογλου, Προλεγόμενα στη θεολογία των ακτίστων ενεργειών. Σπουδή

στον Άγιο Γρηγόριο Παλαμά, εκδ. «Τέρτιος», Κατερίνη 1992, p. 67.「エネルゲイア

無 し に 、 性 質 を 知 る こ と も 、 そ の 存 在 で さ え 不 可 能 で あ る 」 [«οὔτε εἶναι οὔτε

γινώσκεσθαι τὴν φύσιν δυνατὸν ἐνεργείας δίχα» {Ιωάννης Δαμασκηνός (ダマスコの

聖ヨハネ), Ἔκδοσις Ἀκριβὴς τῆς Ὀρθοδόξου Πίστεως ( 正教信仰の正確な解説 ), Ν.

Ματσούκας 文-訳-序文-注釈, εκδ. Π. Πουρναράς, Θεσσαλονίκη 2009, p. 282}].以上

を参照せよ。

▪95 Στ. Γιαγκάζογλου, Προλεγόμενα στη θεολογία των ακτίστων ενεργειών. Σπουδή

στον Άγιο Γρηγόριο Παλαμά, εκδ. «Τέρτιος», Κατερίνη 1992, p. 11.「反対に、バル

ラアムにとって、神はそのウーシアと同一であり、人間と聖なるウーシアの交わりは、

実際、不可能である。それ故、「光」とは被造物であり、天使階級の調停にて到達し得

る」(Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 239)。

31

イイスス·ハリストスの人間性はエネルゲイアに貫かれている。神性と人間

性の交わりは、本質又は性質の混乱ではない。聖霊を通し、「人間と神が

一体となった、ハリストスのエネルゲイア」96 は、位格の神と特定の位格

の被造物の、位格的結合の不滅の源である。97

そのように、エネルゲイアに対し、ハリストスの人間的性質は、典型

的な役に限られず、聖なる光と神成の源となっている。神の似姿を持った

ハリストスの人間性にある、聖餐による交わりが、パンとぶどう酒で象ら

れていることにも、全く同じ意味がある。それ故、神秘主義の社会、そし

てハリストスにある生き方の頂上に設立された教会には、神的生き方の真

実に一部負っているものがある 98。

▪96 聖グレゴリオス·パラマスは、「人間と神が一体となった、ハリストスのエネルゲイ

ア {«τὴν θεανδρικὴν τοῦ Χριστοῦ ζῳοποιὸν ἐνέργειαν», Γρηγόριος Παλαμάς (グレ

ゴリオス·パラマス), Ὁμιλία ΜΒ΄, Εἰς τὸ τῆς τρίτης Κυριακῆς τοῦ Λουκᾶ Εὐαγγέλιον

( ルカによる福音朗読の第三日曜日、第四十二講演 ), PG 151, 532C}」について述べて

おり、各位格は、ハリストスにおいて、ヒュポスタシスの表現を保ちつつ、ハリストス

の人間性は、神性と結合したことで、神聖化され、神成した。つまり、神の位格、御言

葉において、神の賜物は人間の賜物となった。(Στ. Γιαγκάζογλου, Προλεγόμενα στη

θεολογία των ακτίστων ενεργειών. Σπουδή στον Άγιο Γρηγόριο Παλαμά, εκδ.

«Τέρτιος», Κατερίνη 1992, p. 97)。

▪97 Χρυσ. Α. Σταμούλης, Περί φωτός. Προσωπικές ή φυσικές ενέργειες; Συμβολή

στη σύγχρονη περί Αγίας Τριάδος προβληματική στον Ορθόδοξο χώρο, εκδ. «Το

Παλίμψηστον», Θεσσαλονίκη 1999, p. 135.

▪98 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 235-237.

32

さて、パラマス的思考の場合、道徳的な生き方は人格の意義と強固に

繋がっており、人間の道徳的経験を客観化する説教へと傾いてしまうこと

はない。従って、人間を、その善良さ又は不良さで区別せず、後悔の念を

示すか、それとも神とかけ離れた所にいたいのか、そのような視点から、

彼らを見ているのである 99。

世俗教育

バルラアム ‒ と共に、中世のローマカトリック神学の伝統 ‒ は、

神の恵みの栄光の前提として非宗教的、普通知識を理解した。それに対し、

ギリシャ教父の伝統としては、「神を見る」ことが、人間知識に作用され

るとは考えられないことであった 100。

既にアレクサンドリアのクレメンス(二世紀~三世紀初期)は、神に

ついて誰も科学的証拠が利用できず、そのため、科学的方法からすると、

神は証明されていないと指摘した 101。

一方、大バシレイオス(四世紀)は、著書『ヘクサエメロン(«Εἰς

τὴν Ἑξαήμερον»、370年頃)』のさまざまな箇所で、当時の科学的見

解に対応する意見を記述しており、「どのように」世界ができたのかとい

うことから、「誰が」この世を造ったのかを区別した。「創造の偉大

さへの称賛は、これらの立派な創造物がどのようにして造られたのかを知

ることにより、失われていくことはない。」と大バシレイオスは述べて

▪99 Αν. Κεσελόπουλος, Πάθη και Αρετές στη διδασκαλία του Αγίου Γρηγορίου

Παλαμά, εκδ. Δόμος, Αθήνα 1982, p. 211, 213.

▪100 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 225.

▪101「神は証明できず、科学と関わらない [«Ὁ μὲν οὖν Θεὸς ἀναπόδεικτος ὤν, οὐκ

ἔστιν ἐπιστημονικός» {Κλήμης Αλεξανδρεύς (アレクサンドリアのクレメンス), 33

いる 102。要するに、科学と哲学の用語は、大バシレイオスにより、被造物

の研究、それから教義の教えの解明だけに使われた 103。

ギリシャ人教父は、哲学と神学、世俗の知識と聖なる知識を一つ一つ

明白に区別している。目的は、それぞれ、被造物、そして造られざるもの

の知識を得ることである 104。

そのため、教父は二重の認識論的仕法に従っている。さまざまな科学

の分野に適用する哲学的 – 知性偏重的仕法、そして神的事柄に適用する神

学的 ‒ 経験的仕法である 105。それ故、神学上の経験と科学的知識は、互い

に混同せず、効率的に繋がっている。まさにそれが、教会生活の中で学問

の伝統と単純化した精神性が調和し、結合している理由である 106。

しかし、バルラアムと聖グレゴリオス·パラマスの相違は、単に神認識

の問題にあるのではなく、世俗教育と救いの関係にも見い出せる。

Στρωματεῖς (『ストロマティス』 ) Δ, PG 8, 1365A}]」。

▪102 «Οὐ γὰρ ἐλαττοῦται ἡ ἐπὶ τοῖς μεγίστοις ἔκπληξις, ἐπειδὰν ὁ τρόπος καθ’ ὃν

γίνεταί τι τῶν παραδόξων ἐξευρεθῇ» [Μ. Βασίλειος (大バシレイオス), Εἰς τὴν

Ἑξαήμερον {『ヘクサエメロン(創造の六日間)』 }, PG 29, 25A].

▪103 Ν. Α. Ματσούκας, Δογματική και συμβολική θεολογία Α. Εισαγωγή στη

θεολογική γνωσιολογία, εκδ. Π. Πουρναράς, Θεσσαλονίκη 2009, p. 142-143, 148.

▪104 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 33-34.

▪105 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 34.

▪106 Ν. Α. Ματσούκας, Δογματική και συμβολική θεολογία Α. Εισαγωγή στη

θεολογική γνωσιολογία, εκδ. Π. Πουρναράς, Θεσσαλονίκη 2009, p. 147-148.

34

バルラアムは、人間の浄化、そして完成は、人間知識と古代ギリシャ

教育なしでは成し遂げられないと見なしていた 107。

聖グレゴリオス·パラマスは、哲学、そして全般的に教育は、人間にと

って有用であるとしている一方 108、感覚的には強い反抗を示している。哲

学の過大評価と「アリストテレス論理学」への救済論的価値の授与に反発

している 109。

神認識とその延長線上にある救いを元に、神への主知主義的近似では

なく、個人の見解を述べている。それは、聖霊の「神格化された恵み」が

完成させる、真の人間と神の結合である。神的光を「見る」には、訓練と

心の清めが必要とされる 110。

▪107 Ν. Α. Ματσούκας, Δογματική και συμβολική θεολογία Α. Εισαγωγή στη

θεολογική γνωσιολογία, εκδ. Π. Πουρναράς, Θεσσαλονίκη 2009, p. 39.「被造物の知

を得ることなく、そして不知から浄化されなかった聖者は在りえない [«οὐκ ἔστιν

ἅγιον εἶναι μὴ τὴν γνῶσιν εἰληφότα τῶν ὄντων καὶ τῆς ἀγνοίας ταύτης

κεκαθαρμένον» {Γρηγόριος Παλαμάς (グレゴリオス·パラマス), «Ὑπὲρ τῶν ἱερῶς

ἡσυχαζόντων ( 聖なるヘシュカスト(静寂主義者)のための弁護 )» 2, 1, 34, Γρηγορίου

του Παλαμά Συγγράμματα τ. Α΄, επιμ. Π. Χρήστου, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη

19884, p. 495}] 」。

▪108 聖グレゴリオス·パラマスは、人間知識を低く評価することもなく、古代ギリシャ

哲学に反対することもしていない。むしろ本人がアリストテレスの論理の教養に恩義が

あり、その上、パラマスの伝記作者、フィロテオス·コキノスは、その書物に古代ギリシ

ャ人作家の資料を参照し、飾っている。いずれにしろ、ヨハネス·カンタクゼノスとニコ

ラオス·カヴァシラスのように、学問の復興に賛成だったヘシュカストはたくさんいた

(Π. Κ. Χρήστου, Εκκλησιαστική Γραμματολογία. Πατέρες και Θεολόγοι του

Χριστιανισμού τ. Β΄, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 20032, p. 57)。更に、「パラミ

ズム」の大勝利は、帝国の末期まで続いたパレオロゴス王朝を中断させることはなかっ

た (Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 225)。

▪109 Βενιζέλος Χριστοφορίδης, Οι ησυχαστικές έριδες κατά το ιδ΄ αιώνα, εκδ.

Παρατηρητής, Θεσσαλονίκη 19932, p. 39, 127.

▪110 Ιω. Ε. Αναστασίου, Εκκλησιαστική Ιστορία τ. Β΄, εκδ. Επίκεντρο, Θεσσαλονίκη χ.χ., p. 99.

35

神の恩寵の協働として、浄化は人間知能によらず、心の清さ、そして

天命を行う意志次第である。苦難からの浄化は、教会儀式の場にて、真の

面を見い出す。そうして、神、そして人間同士の交わりの中で、感情的な

体験の周囲の状況に置かれず、神的清浄さに生きるための、人間の努力が

証明されている 111。

聖グレゴリオス·パラマスは、精神生活の道徳的捉え方を認めないと断

言している。神学は、「業」と「生活」といった、真実で確かなものの上

に定められている教会の経験である 112。従って、パラマスの神学は、「事

実の神学」、もっとよく言えば、教会の要求に課された時に、その語法を

見いだす「見神」である 113。

このような神学の原理とは反対に、西方では、特にスコラ哲学的神学

において、新たなる、統一した方法論が支配した。神学は、その方式と内

容からして、他の学問の対象の続きだった故、世俗学問の予備教育は、単

に知性の鍛錬ではなく、学問としての神学に欠かせない必要条件だとされ

た。全てがアリストテレス哲学の跡をたどっていた。自然界の対象物を

全部、アリストテレスが研究し、解き明かしていた 114。

▪111 Αν. Κεσελόπουλος, Πάθη και Αρετές στη διδασκαλία του Αγίου Γρηγορίου

Παλαμά, εκδ. Δόμος, Αθήνα 1982, p. 214.

▪112 「我々は、言葉と塾考により発見されたものではなく、「業」と「生活」の中で

証明された知識を真の信仰だと考慮している。それは、安全であるだけでなく、安定も

している˂«Ἡμεῖς δὲ οὐ τὴν διὰ λόγων καὶ συλλογισμῶν εὑρισκομένην γνῶσιν

δόξαν ἀληθῆ νομίζομεν, ἀλλὰ τὴν δι’ ἔργων τε καὶ βίου ἀποδεικνυμένην, ἣ καὶ μὴ

μόνον ἀληθής, ἀλλὰ καὶ ἀσφαλής ἐστι καὶ ἀπερίτρεπτος» [Γρηγόριος Παλαμάς (グ

レゴリオス·パラマス), «Ὑπὲρ τῶν ἱερῶς ἡσυχαζόντων {聖なるヘシュカスト(静寂主義

者)のための弁護}» 2, 1, 1, Γρηγορίου του Παλαμά Συγγράμματα τ. Α΄, επιμ. Π.

Χρήστου, εκδ. Κυρομάνος, Θεσσαλονίκη 19884, p. 423]˃」。

▪113 Αν. Κεσελόπουλος, Πάθη και Αρετές στη διδασκαλία του Αγίου Γρηγορίου

Παλαμά, εκδ. Δόμος, Αθήνα 1982, p. 16.

▪114 Ν. Α. Ματσούκας, Δογματική και συμβολική θεολογία Α. Εισαγωγή στη

36

聖グレゴリオス·パラマスは、バルラアム、グリゴラス、そして他のヘ

シュカスム反対派に直面し、哲学ではなく、神のいない神学の結論である

自主的ヒューマニズム(人文主義)を拒否した 115。

θεολογική γνωσιολογία, εκδ. Π. Πουρναράς, Θεσσαλονίκη 2009, p. 150-152.

▪115 Χρυσ. Α. Σταμούλης, Άσκηση αυτοσυνειδησίας («Λειμών Αμφιλαφής» 7), εκδ.

«Το Παλίμψηστον», Θεσσαλονίκη 2004, p. 157-158.

37

ヘシュカストの勝利の

重要性

ヘシュカスム論争に続いた年月に対するヘシュカスム的神学の教理の

威力は強く、正教を西方の影響から清め、東方教会の、西方への服従の回

避にも貢献した。論争が幕を引くと、帝国はその伝統と向き合った 116。ヘ

シュカスムの精神性は、ロシア、そして全ての正教国に伝わっていった 117。

その後、到来が遅くなかったオスマン帝国の支配の過酷な年月の間、

ヘシュカストの勝利は、正教の信仰の保全のために、最大限の力となった

118。無情にも、その過酷な期間、正教の神学思考への自意識は失われてい

った。その時期、多くの学識者が西方で学び、西方的考え方の基本を紛れ

もなく受け入れ、正教から成り立っていた東方へ伝達した。西方の形而上

学初期、正教徒の長期に亘る「捕虜生活」の由縁にある 119。現代の正教神

学と聖グレゴリオス·パラマスが代表する、大いなる伝統の再連結の道のり

は、今でも、まだ続いている 120。

▪116 Βέλικο Ραντούνοβιτς, Τα έργα του Αγίου Γρηγορίου Παλαμά στη σερβική

γραμματεία του 14ου αιώνα, διδακτορική διατριβή, Θεσσαλονίκη 1998, Εθνικό

Κέντρο Τεκμηρίωσης 14/4/1999, p. 81.

▪117 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 217.

▪118 Ιω. Μάγιεντορφ, Η βυζαντινή κληρονομιά στην Ορθόδοξη Εκκλησία, μτφρ. Δ.

Μόσχος, εκδ. Αρμός, Αθήνα 1999, p. 217.

▪119 Στ. Γιαγκάζογλου, Κοινωνία θεώσεως. Χριστολογία και πνευματολογία στη

διδασκαλία του Αγίου Γρηγορίου Παλαμά, διατριβή επί διδακτορία υποβληθείσα στο

τμήμα θεολογίας του Α.Π.Θ., Θεσσαλονίκη 1995, p. 17.

▪120 Στ. Γιαγκάζογλου, Προλεγόμενα στη θεολογία των ακτίστων ενεργειών.

Σπουδή στον Άγιο Γρηγόριο Παλαμά, εκδ. «Τέρτιος», Κατερίνη 1992, p. 12.

38

終章

東ローマ帝国と西との政治、文化、言語に対する相違は、時が経つに

連れ、教会内にも徐々に多様化をもたらし、最終的には埋めることのでき

ない、深い亀裂へと化していった。

西ローマ帝国の消滅とラテン語の優勢の結果、西部の教会筆者は、ギ

リシャ教育を受けていなかったのである。このようにして、二つの世界が

互いに遠のいていった、長い期間が過ぎ、十二世紀に、熟した実のように、

スコラ的神学が訪れた。それ故、西方では、伝統的神学が放棄され、両教

会の間には、もう共通の言語は無くなってしまった。

十字軍によるコンスタンティノープルの陥落(1204)、そして東

ローマ帝国の広い地域に亘る西方の支配で、スコラ神学は正教内へ侵入し

た。しかし、そこには一つ障害があった。民衆は、我帝国が滅ぼされ、圧

制されるのを目にし、西ローマ帝国が極悪の敵だと感知したのである。そ

の感覚は西方の人に対してだけでなく、西部、全てのものにも拡張してい

った。

西方の神学思考とその観点への反発は、民衆の意識による自然な反応

であった。聖グレゴリオス·パラマスは、単独でなく、教会の組織体を表現

しようとしている。だからこそ、パラマスの神学は、哲学的塾考から出た

実ではなく、従来からのバイブルと教父の伝統の続き且つ要約である。

正教の自己認識が抗戦した西方の神学思考の主な特徴は、下記のとお

りである。:

一)本質主義

二)合理性

三)古代ギリシャ哲学、更にはアリストテレス哲学の絶対主義化

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そのような挑発に対する聖グレゴリオス·パラマスの答えは決定的であ

った。:

一)神とそのウーシアの厳密な同一視を否定した聖グレゴリオス·パラ

マスは、神の存在に関し、ウーシアと位格の区別よりも、ウーシアとエネ

ルゲイアの区別へと導いた。「造られざる」エネルゲイアは神的ウーシア

から湧き出て、創造物個々に移される。神聖なる自然は、神的位格の手中

に治まっているのだから。

二)合理性は教会の経験上に定められていることで、教会神学には位

置されない。その神学は「事実の神学」、言い換えれば、教会の要求に課

された時に、その語法を見い出す「見神」である。

三)聖グレゴリオス·パラマスは、哲学、そして全般的に教育は人間に

とって有能だと考慮しつつも、その過大評価と「アリストテレス論理学」

への救済論的価値の授与に反発している。哲学は神学から明快に区別が付

く。哲学の目的は被造物の知識、一方神学の目的は造られざるものの知識

である。神の恩寵の協働としての浄化は、人間の知能に左右されるもので

はない。

聖グレゴリオス·パラマスの教えは異教のものだと、ローマに否認され

た 121。スコラ神学は公式化され、何の意義もなく、全面的に西方の思考と

生活に加えられた。

▪121 Steven Runciman, Η τελευταία Βυζαντινή Αναγέννηση, μτφρ. Λάμπρος

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